ニューメキシコ州ロスアラモス。1943年、原爆開発の秘密研究「マンハッタン計画」の拠点として造られた町だ。研究所の所長は物理学者、オッペンハイマーだった。
サンタフェに行く計画を立てた時(2013年)、すぐにロスアラモスが思い浮かんだ。サンタフェからは車で北西へ45分ほどの距離。なぜか、ずっと行ってみたかったのだ。というか、なんとなく行かなきゃいけない気がしていた。理由をうまく言語化はできないのだけど。
崖の上の秘密の町

ロスアラモスは、メサ(崖に囲まれたテーブル台地)の上にある。この場所が選ばれたのは、ぐるりと深い渓谷に囲まれていて、人の出入りを管理しやすかったからだ。プロジェクトがいかに極秘だったのかがよく分かる。
町の入口にはこんなモニュメントがあった。

「LOS ALAMOS Where Discoveries Are Made! (発見の生まれる町ロスアラモス)」
今も国立研究所が稼働しているためか、現在進行形のニュアンスがある。アメリカにとっては「発見」なのだなと思うと、いきなり仄暗い気持ちになった。
この日、晴天率90%とも言われるニューメキシコは、びっくりするぐらいの超曇天。一面、フィルム越しに眺めたみたいなダークカラー。足取りが重かったのは、そのせいもあったかもしれない。
科学博物館の片隅で

町の真ん中に、ロスアラモス国立研究所が運営する「ブラッドベリー科学博物館」がある。原爆開発の歴史と現在の研究内容などを無料で公開している。
広島と長崎に落とされた原爆の複製などが展示されていた。もちろんすべて英語なので、どのように紹介されているのか完全に理解はできなかったのだけど、少なくとも「偉大なる発見」の文脈で語られているようには見えた。
覚悟してはいたものの、どんどん暗い気持ちになる。
展示の最後に、小さな企画コーナーがあった。

右側のパネルには、大きくこうある。「Why The Bomb?(なぜ原爆か)」。

原爆が民間人と軍人の命を救ったのだ、という主旨だ。真珠湾攻撃のこと、日本軍の捕虜の扱いが非人道的だったこと、本土侵攻は多大な死者が出たであろうこと、ポツダム宣言を日本が拒否したことなどがその理由として挙げられていた。
「We mourn the lives lost and celebrate the lives of those who survived because of the decision to use the atomic bomb to end the war. (失われた命を悼み、戦争を終わらせるために原爆を使うという決定によって生き延びた人々の命を祝う)」
その隣に、ナバホ族暗号通信兵、バターン死の行進の団体、海外戦争退役軍人会などが明記されている。
ニューメキシコに刻まれた大戦の傷
当時ナバホ族からも多くが派兵された。うち約400人がコードトーカー(暗号通信兵)だった。ナバホ語が暗号として利用され、日本軍は最後までこの暗号を解読できなかったという話だ。本土侵攻となれば、ナバホの兵士たちも日本に上陸して実戦を交えることになっただろう。
「バターン死の行進」というのは、フィリピンのバターン半島で日本軍の捕虜になった米軍・フィリピン軍の兵士が、水も食料も与えられないまま収容所まで歩かされたというもの。その道のりは約100km。日本軍による暴行も加わり、1万5000人以上の死者を出したと言われている。
そのバターン半島に派遣されていたのが、ニューメキシコ州の州兵部隊。というのも、フィリピンはスペイン領だった時期が長い。スペインの入植をルーツとするニューメキシコにスペイン語話者が多かったことが、派遣の理由だった。
終戦後、生き延びた帰還兵は感謝のために約50kmの巡礼をした。その際に目指したのが、チマヨの「サント・ニーニョ・デ・アトーチャ礼拝堂」。前回の記事に書いた、あの小さな聖堂だ。
「失われた命」の中に、広島・長崎の被爆者も含まれているのだろうとは思う。また、被害の大きさはいったん置いて、原爆投下のおかげで生き長らえた兵士が安堵と感謝を覚えるのも当然だろう。
とはいえ、この展示の文脈からは、ほのかに「報復はやむなし」という念も感じられる。どう受け止めていいのか分からない。
議論の余地
対して、向かいのパネルにはこうあった。

「A bombs were not needed to end the war quickly. (戦争を早く終わらせるために、原爆を使う必要はなかった)」
過去15年に公開された日記、報告、新資料に通じた学者の多くがそのことに同意していること、また、開発責任者のグローブス将軍も、原爆を使うまでもなく対日戦はすでに勝っていたと認めていることが書かれている。
写真群は、言うまでもなく被爆直後の悲惨な状況を写したものだ。
加えて、当時の参謀長リーヒ提督の言葉が添えられている。日本はすでに敗北していて降伏の用意があった、この野蛮な兵器を使ったことで倫理水準が中世まで後退した、女性や子どもを殺して戦争に勝つことはできない、というようなことだ。つまり、軍の最高位にいた人物でさえ原爆の非人道性を認めて批判の立場を取ったことになる。
右隣のパネルには、ニューメキシコ州の市民が汚染の除去や補償などを求めていることが書かれていた。その背景には、研究開発やウラン採掘に伴う汚染、核実験による被曝などがある。開発段階で、市民もまた多大な被害を受けているわけだ。もちろん市民には、先住民の人たちも含まれる。
なお、ウランの採掘に雇われた労働者たちは、放射線の危険性を知らされていなかったそうだ。その多くはスペイン系の住民やナバホ、プエブロなど先住民の人たちだった。
実験場となった州南部の砂漠地帯「トリニティ・サイト」のすぐそばにも、スペイン系の住民やアパッチ族などの先住民が暮らしていた。
1990年に放射線被ばく補償法が成立し、ウラン採掘の労働者と、核実験の風下にいた住民に一時金が支払われることになった。が、「風下」として認可されたのはネバダの実験場周辺だけ。ニューメキシコ州が補償対象に加えられたのは、なんと2025年7月。つい最近のことだ。
原爆投下の是非を議論するのは、一筋縄ではいかない。ただ一つ確かなのは、弱者であるほどに巻き込まれ、犠牲になるのだということ。そしてその悲劇は今も続いているということ。
そのうえで私個人は、批判の立場を取りたい。有事には真っ先に巻き込まれて犠牲になるであろう弱者の1人として、人権の実存を諦めたくはない。改めてそう思った。
疲れ果てて、夕陽が沁みた
しかし正直言って驚いた。研究所のお膝元で、まさか反対派の主張が取り上げられているとは思わなかった。
両パネルの真ん中に、意見を書き込めるノートが置かれていた。私も書いた。英語で書いたんだっけ、日本語で書いたんだっけ、そもそも何を書いたんだっけ。まるで記憶にないが、書きながらなぜだかちょっと涙が滲んだのを覚えている。
博物館を出て周辺を少しぶらぶらしたが、この写真を撮ったきり結局中にも入らなかった。

訪問(2013年)の2年後に一帯が「マンハッタン計画国立歴史公園」として指定され、写真の博物館なども改装されたらしい。映画「オッペンハイマー」公開の2023年(日本では2024年)前後には、観光事業計画もさらに強化されたという話だ。
ただ2013年訪問時にはそれほど予備知識も案内表示もなく、なにより博物館で妙にぐったり疲れてしまった。周辺を散策する気力も湧かず、町を車でぐるりと一周して、そのままサンタフェのモーテルに戻った。
ちなみに、写真の建物のすぐ右隣に「フラーロッジ」という1928年に建てられた丸太造りの建物があったはずで、プロジェクトの際には研究者たちの集会所などとして使われた史跡なのだけど、なぜか大いにスルー。記憶もない。よほど疲れていたらしい。
サンタフェに戻ったのは、夕方。西の方角が晴れて、下空が真っ赤に焼けていた。

疲れた心に沁みた。歴史に殴られる体験ってのは、つくづく旅の醍醐味だなと思う。
あ、ちなみにあの展示がまだ今もあるかは分からない。あ、そういえば映画「オッペンハイマー」もまだ観ていない。そろそろ観てみるかなあ。
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